神さまと、白蛇へびっちと私と、ミカンと。

私はスピリチュアルな物事が面白くって好きですが、

でも本当に一番好きなのは妖怪です。

物の怪さんです。お化けです。

試験も学校もないし、

好きな時に寝るし意欲的に好きなことをしてるし

何しろ明るい!陽気!なとこが好もしい。

そしてこれ、たぶん妖怪に興味のない方々からすれば

『いやそれ違うだろ、妖怪は陰のモンだろ、どう考えても

マイナスエネルギーだろ…』となるんでしょうが、

私個人にはプラスのエネルギーで満ちた存在です。

妖怪好きのヒトにはきっと通じるはず…!

 

もう自分は前世妖怪じゃないのか?!とか思ってましたが、

へびっちによりますと、

なんかそういった人間じゃないモノとヒトをつなぐ役目だったそーで。

つなぐどころかソッチ側に移住しようとしてたと思われ←

 

なので、感性がお化け寄りなので、お化けは恐怖じゃない。

でも人間は怖いですね~(笑)!

…書こうとしてることが外れてしまいました。

 

私はへびっちと交流の仕方が『首の動き』と『感情』なので、

どうしても細かいところが分からなかったりするのです。

そういうもどかしい時にへびっちが私に知ってほしいこと、

へびっち以外のモノが私に伝えたいことを簡単に教えてくれる方法があって、

それは唐突に見える形で目の前に現れます。

 

友人知人の何気ない言葉だったり、

絵本に書かれていたり、

マンガや小説に書かれていたり、

街の標識だったり、

見てるテレビドラマのセリフであったり、

ネットで偶然に見つけたサイトの記事だったり、

ほんとに表現のカタチはいろいろです。

 

今から書くのはある絵本を通して伝えられたことです。

へびっちや、人間とは違うモノが人間に伝えたいお話です。

 

『ヒトと同じように名前を呼んでもらえることを

 ヒト以外のモノも皆嬉しい』

 

『名前を呼んでもらえることの幸せ』は、

『自分を必要としてくれる存在がいることの幸せ』

だそうです。

 

誰にも自分を呼んでもらえないのは寂しいし悲しい、とのこと。

名前が無いならたとえ愛称でも、

『おい、ヘビ!』『おい、キツネ!』でも、

そこに愛情があるなら、

自分を呼んでくれることは誰だって嬉しいと。

名前ってほんとに重要みたいなのですが、根底にあるのは

そのモノが存在する意義をヒトやモノが分かりやすい形にしたものだそうです。

 

ただ、日本人がミカンを見て『ミカン!』と感じればコトダマが成立ですが、

外国の人に、沢山の果物の中から

『ミカンっぽいのを探して?』と頼んだとして、

分からないからリンゴを『ミカンっぽいかな~…?』と

選んだとしたら、

その時ミカンは…ミカンはいったいどうなってしまうのか…?!

なんですが(笑)、黄色くて丸くて冬に美味しい果物、

という存在としてのミカンは永遠に変わらない…(笑)

冬のコタツで食べたくなるアレ、という価値は消えない…!

 

人間が固有名詞として名を呼ぶことは、

それを閉じ込めそこに留まらせる呪(しゅ)になったり、

それの悪事を暴く武器になったりもします。

悪いお化けちゃんは『おまえは○○!』とかいうと

バレちゃったテヘペロ♡で去る、というのもあるそーです(笑)

不思議ですね~。

 

ただへびっちと、他のモノが伝えたがってたのは、

『自分のことを必要としてくれる幸せ』

という、名前についての一つの側面でした。

それを知ったとき、なんだか切ないしみじみした気持ちになりました。

へびっちはいつも、

『ひとりぼっちは誰だって寂しいよ。

誰にも必要とされないのは悲しいよ。』

と言ってます。

 

もしも『名前』という大きな強い力に影響を受けないとしたら、

名前にくくられる必要のない大きな神さまだろうなと、思っております。

 

自分も他者もひとつの大きなモノ。

あなたもわたしも一人のようで一人ではない、

大きなモノへ還っていく一部だよ、

何も寂しくないよ。

…ということが心から理解できている神さまには、

名前は必要ないかもですねぃ。

 

だってミカンがミカンと呼ばれなくたって、

黄色くて丸くて冬に美味しい果物、

という存在の大きさは、決して揺らがないですもんね。

 

大きな大きなモノの一部…まるで手塚先生の『火の鳥』です(笑)。

先生は何かが見えてたんでしょうねぃ~。

最後は『手塚先生、スゴイ!』で締めました(笑)。

それでは、また~!