宗像・知る人ぞ知る神社に冒険!! ④~古代のムナカタの真ん中は海だった?!地名から八所宮のナゾに迫る!!の、巻~
すばやく更新するはずが、うっかり間があいてしまいました~~!!
アワアワしてたらツチノコ型ペーパーウェイト(←東京デザインフェスタで購入)が
落下、可哀そうに、ツチノコのお目めを破損してしまいました。゚(゚´Д`゚)゚。
急いで100均手芸コーナーで6mmのお目めを探してくる途中、
素敵な水色の、小さなナゾの卵の殻を発見!
お家に帰って調べてみたら、ムクドリの卵でした。
そういえば、街路樹にムクドリがたくさん遊んでました。無事に孵化して良かった。
ツチノコにもお目めが戻ったし、一件落着!!
…じゃなくて!!
今回は、宗像のナゾ多き神社、『八所宮(はっしょうぐう)』を、
周辺の地名や古い地形図から探っていきたいと思います!どんどんパフパフ~(古)
JR赤間駅という市内の駅の周辺から八所宮のあたりまで、
昔は赤馬庄(あかまのしょう)と言いました。
なんでも日本の一番最初の天皇・神武天皇が日向(宮崎県)から東に
進んでいく時この地区を通りまして、
それを西海守護の神さまが赤馬(あかうま)に乗って導いてくれたそうです。
その神さまを祀っているのが『八所宮』で、神さまが赤馬に乗ってたから
土地の名前が赤馬=赤間(あかま)になり、神さまたちが(または神武天皇が)
『吉き(よき)所に留まりたもうた』から八所宮周辺が吉留(よしどめ)
になった…、というご由緒があります…が、
不届きモノ・ツチネコは思った!
『そんなダジャレみたいな地名、ちょっとなんか怪しいんでは…???』
なんか前から『アカウマから赤間!』というのが地元民なのに、
全然ピンとこないのです。
何故かと言いますと、件の『馬』に関するような他の地名、神社、地元民の苗字、
郷土玩具など、『赤間』の地名以外には、何にも見当たらないからです。
『神さまが乗ってきたありがたいアカ馬ちゃんだよ~~♡♡』
という伝承があるのに、どこにもウマっぽさがない謎…
どっちかというと、最近になって道の駅のようなとこに
『赤馬館(あかまかん)』というのが出来たり、
赤間駅周辺の立体交差点の模様に、昔の馬の玩具が描いてあったりです。
なので、ツチネコは調べた!!(@Д@)
まずはこちらをご覧いただこう!!
6000年前の、宗像と北九州付近です!
6000年前と言えば、我々の祖先が縄文生活を元気に送っていらっしゃった頃!
じつは、九州は7300年前に鬼界(きかい)カルデラ噴火という
途方もない破局噴火を経験しました。残念なことに当時、九州(四国・本州も
被害は甚大だったはず)の縄文人の皆さんはほとんど絶滅。
(鹿児島周辺には超高度に発達した縄文文化が栄えていたそうですが、こちらも火山灰に埋まりました…)
それから1000年くらい九州は無人だったのでは、と言われております。
(じつは2万9000年前も姶良カルデラ噴火で、旧石器時代の皆さんが絶滅してます…災難…(TωT))
噴火から1000年もたてば草木も蘇り、それに加えて世界的な温暖化は
各地の縄文人の海洋進出を後押し!九州にもいろんなとこから来たご先祖さまが、
縄文フロンティア精神で快適な土地を開いていたわけですね~。
(鬼界カルデラ噴火の時に生き延びた日本の縄文の方々が南北アメリカや太平洋の島々に渡り、
ネイティブアメリカン、インカ帝国の人々になった?!…というすごい説も…!)
ということで、今では考えられませんが、
宗像市内のど真ん中は古宗像湾(こ・むなかたわん)という、
素敵な内陸の海でした(笑)!宗像大社予定地も、海すれすれに…!!(@Д@)
この頃すでに八所宮は陸地ですが、八所宮の周りも含め、市内に河川は縦横無尽に
たくさん広がっていたようです。
ただ、山などの地形はほぼ現在と変わってないとのこと。海面は広がったけど、
陸地が隆起したり陥没したりはなかったんですねぃ。
しかし世界的な温暖化は紀元前1世紀ごろに終わり、それから紀元3世紀までは、
世界的な寒冷化が…!徐々に海は小さくなっていく…(´・ω・`)
こちらは弥生時代後期の地形図。まだまだ海は残ってます。書いてないけど、
宗像の隣町から北九州まで広がった古遠賀湾(こ・おんがわん)も、まだまだ
のびのび広がってます。4月にお参りした楯崎神社も、島にありますね…
え?!!し、島だったんか~~?!(今は岬の突端です)
紀元2、3世紀といえば、すでに古墳時代の足音が…!コフン…コフン…
(ヒミコが魏に使いを送った、と言われるのが西暦239年頃。)
コフンの前に、2300年前稲作を伝えてくれた弥生人の皆さんは、
宗像周辺にもしっかりお住まいでした!おそらくは彼らが、
宗像を最初にがっつり快適に稲作万歳!!な土地に変え、縄文の皆さんとの
違いを乗り越え、頑張って仲良く共存・繁栄した、輝くべき宗像市民です。
『ムナカタ』という言葉を最初に持ち込んだ方々だったはずです。
いわゆる、海の民・ムナカタ氏です。
私は、この方々の神さま、というか、
最初の最初は自分たちのリーダーであった方々が、現在の宗像の神さまだと思います。
その神さまたちが、なぜか現在、
別の神さまの名前になって
いるんでは…?!!
という仮定の下、妄想古代脳をフルに回転させております。
具体的に言いますと、
宗像大社の本当の神さまは、宗像3女神ではなく、
大国主さまとその二人のお后
(市杵島姫さま、田心姫さま)ではないか??
また、
八所宮の神さまは由緒不明の8柱の神さまではなく、
大国主さま、お后さま二人、
そのお子さま:事代主さま・松尾さま、
お二人のお后さま、と、あと、誰か(笑)
ではないか???
…という、妄想古代ミステリー仮説です!
あくまで仮説ですよ!!素人の仮説ですよ!!覚えてもテストに出ませんよ!!
今までもあれこれ考察してるので、良かったら前の記事もどうぞ~~♡♡
そこでまぁ、地名です(前置きが長い)。ツチネコは調べた…!!
今回の八所宮周辺地域の赤間が、『神さまの乗ってきた赤い馬』というのを
徹底的に疑いまくった!
古地図を見ると、どうも宗像は真ん中に海が広がり、それが縄文から古墳時代まで
確実に残っています。以前お正月にUPした生目神社周辺(地図参照)、
あのあたりも入り江になってます(JR赤間駅にほど近いです)。
生目神社のご由緒に『このあたりまで入り江だった』とあり、その時は
てっきり近くの釣川(つりかわ)の川岸が今より広かったんかな~、
ぐらいに思ってたんですが、どうやら本気で宗像中心まで海が入り込んでたんですね。
八所宮周辺には、この古宗像湾に注ぐ川が流れ、おそらく土地は湿地帯では
なかったのかと。神社のご神紋のオモダカは、シイ・カシといった西日本に多い
樹木のある湿地、池や沼に生息する植物です。
図鑑からスキャンしてくる力業。
たしかに葉先が矢じりにそっくり。武家に好まれた家紋というのも分かります。が、
生えてもない親しみないモノをご神紋にするとも思えないので、やはり八所宮周辺は
湿地であったはず。また、天武天皇が飛鳥時代にこちらを遷座する前は、すぐ側の
御手洗池(みたらいいけ)という池のほとりにお宮がたっていたそうだし、
現在もこの場所は釣川上流で、周辺は田畑が広がっております。
湿地なのに赤い馬がパカラってるのはどうなのよ???
と、どんどん疑うツチネコ。コナン君もビックリです。
そこで、古語を調べてみました。『アカ』を赤色と決めず、
『アカ』という単語で考えます。すると、出てきましたよ!!
『アカ』…水を意味する。
いろいろ説がありましたが、古代新羅語が語源の、『アカ』=『水』
が、一番近い気がしました。仏教でも閼伽水(あかみず)といって、
神仏に備える水=『アカ』と呼ぶそうですが、語源がサンスクリット語なので、
ちょと違うかも、と。もっと辿って行ったらつながるかもですが(笑)
この古・新羅語というのは、南の地方(中国江南・雲南省方面、タイ、
インドネシア等々)の影響を色濃く受けた言語だそうです。
新羅というのは、現在の韓国・釜山周辺も含むよう。
去年私が10日間も取材旅行した、とにかく食べ物がおいしい愉快なパラダイスです(笑)。
海雲台(ヘウンデ)という超!南国リゾート地気分満載な観光地がありまして、
(でも昔は閑散とした漁村だったらしい…)、韓国全土からビーチを楽しみに人々が集まります。
では、『アカ』に続く『マ』といえば、古語でもずばり、空間を表すよう。
これとは別に『袋状の湿地』(山地に囲まれた湿地の意?)という
のもありました。
どちらにせよ、ピンとくるのは古・新羅語の『アカ』=『水』。
『アカ・マ』=水のたくさんあるところ、水浸しの湿地、
だったのでは…??と、思ったわけであります。
南方系の新羅のヒトが宗像に来ていたのかは分かりません。
全く別のルートから来た南方系の人たちが伝えた言葉かもしれません。
(ちなみに地名に『アカ』とつく場所は、現在でも実際に洪水や土砂災害の多い土地にあてはまる…
という説があります。)
アカマの語源に続き、神さまが『ヨシ☆とめ!』(らき☆すた、みたいに…)
…と言ったから吉留(よしどめ)になったと言われることについても調べました!
古語で『ヨシ』というのはもちろん『良し♡』の意もあるんですが、
植物の『葦(あし)』(シイ・カシ帯の池や沼、湿地・
河原・干潟に生える草)を、良くないことを意味する
『悪し(あし)』に繋がるのを避けるため、代わりに『ヨシ』と言い出したのが
始まりだそう(なんとアシもヨシも、その漢字は一緒!)。
続く『留め』は、古語でもそのまま『とどめる』の意です。
そこでツチネコは考えた!
『ヨシ・ドメ』
というのは、植物のアシ=ヨシ(葦)がたくさん生えていて、丁度このあたりで
古宗像湾、それに注ぐ川をさかのぼって入港した船を留め置いたり、
船を留めて湿地を歩いて陸地に渡らなければならなかったから、ではないか?と。
もしこの仮説が元の地名の語源としたら、アカマは南の方の言葉から、
ヨシドメは湿地の植物と船着き場の意味から、
となります。
では、『オイオイ、赤い馬の話はそれじゃ
どっから来たんだよ…???』なんですが…(笑)
これも調べましたよ!!
宗像のお隣は、八所宮のすぐ先、以前記事にした猿田峠の『豊日社(とよひしゃ)』
の向こうに、鞍手町。(前記事の十一面観音様、じつはこちらにも同じのがありました(笑))
宗像との共通点は、すべての街に流れる川のほとんどが、最終的に
遠賀川(おんががわ)という、
大きな大きな川と一つになる、という事です。
この遠賀川、6000年前~古墳時代まで、あるいはもうちょっと先まで、
古遠賀湾(こ・おんがわん)という海でした(古地図参照!)。
古遠賀湾周辺には広大な干潟が広がり、弥生文化が大発展していたそうです。
そして地球規模の寒冷化の時代の後、古墳時代まっさかりになりますと、
大陸から馬の飼育の技術がもたらされました。
だいぶ小さくなった古遠賀湾は現在の遠賀川に姿が近くなっていくわけですが、
その上流では、なんと、馬の牧場が出来ていたそうです。
遠賀川上流域は馬の生産地となり、古遠賀湾から、当時国交のあった百済などに馬を
輸出していたそう。もちろん、ヤマト朝廷にも持っていったでしょうねぃ。
(そーいえば遠賀川上流の田川市に本家がある友達の名前が、馬原くんだな…)
じつは現在の遠賀川は、江戸時代初期まで『御牧川(おまきがわ)』
と呼ばれていました。馬の牧場の名残ですねぃ。
馬の痕跡はその周辺にそこかしこ残っていて、
鞍手・遠賀・岡垣にまたがる馬頭岳というお山があったり、
鞍手町などはまんま、町名に馬の『鞍(くら)』がついています。
有名どころでは、宮若市に『竹原古墳』というところがありまして、
なんともロマンを感じる彩色古墳が残っております。
(画像をお借りしました)
大きな日よけ用うちわ『さしば』、うずを描く波、とがった靴を履く大陸風のヒト、
彼の連れている馬、その下に船、彼らの上にでっかい怪獣…?!!
個人的には怪獣で良いんですが(笑)、どうやらこれは
竜媒信仰(りゅうばいしんこう)
という、竜と雌の馬を掛け合わせて、素晴らしく足の速い馬を作る!という
中国の信仰の影響を受けているそうです。中東にも広がっていた信仰の
ようだと、明治の知の大巨人・南方熊楠先生も『十二支考』に
書かれていました。ずいぶん前に神保町で買った古本が役に立ちます!南方先生最高!!
古墳に描かれているのは、馬の牧場で大成功した、この地域の有力豪族の方です。
ちなみにこの彩色古墳自体の建造は7世紀後半で、飛鳥時代に入っています。
ただ彩色の影響は、5世紀の高句麗の彩色古墳からと見られています。
…ん?高句麗??…たしか、まえ~~の記事で、高句麗ネタを書いたような…
気になる人は、ずいぶん前の記事から読んでね~~(笑)!!
あと、竹原古墳のある場所は、諏訪神社(すわじんじゃ)となっております…
諏訪神社…宗像大社と同じ、熊襲物部(くまそもののべ)系列の神社であり、
また安曇族という、長野県に入植した海人族の神社であり、
災害前にUFOを飛ばしてツチネコとへびっちに危険を知らせてくれた神さまのいる、
あの、すごい神社の分社ですねぃ…(笑)
あと、じつはツチネコ家の近くに相原古墳(そうばるこふん)
というところがありまして、こちらは現在宗像牛を育てる牧場の敷地内にあります。
(ススキ牧場さんです。宗像エール飯記事で手羽先がおいしかった肉屋さんの、牧場です(笑))
相原古墳には、武人らしき方が眠っていらっしゃる、とのこと。
豪華な副葬品には、新羅製の土器や、新羅製の馬具一式が納められていました。
こちらは竹原古墳より早く、6世紀後半に出来ています。
あと、うちの家のすぐ近いとこから、短足な可愛いウマの土器が出てました(笑)。
ここで現在の宗像市と、周辺の街の地図です。
6000年前から比べると、すっかり陸地ばっかりになりましたね~~(笑)。
ここで私の妄想古代ミステリー仮説!!
をまとめたいと思います。まとめてもテストに出ないよ!
①赤間は『赤い馬』が語源ではなく、
南方からやってきた海人族の方々の言葉:
『アカ(=水)』と
『マ(=空間、あるいは湿地)』、
すなわち『水の多い湿地帯』のことではなかったのか?
②吉留は神さまが『吉きところに留め』と
言ったからではなく、
『植物のヨシ(葦)』の生い茂る、
船を『留め』たりする場所のことではなかったのか?
③馬に乗った神さまがやってきたのではなく、
古宗像湾や古遠賀湾を経て、
馬に乗った、馬の飼育の技術がある渡来人がやってきた
のではなかったのか?
④宗像に先住していた南方系の人々の神さま
(=古代人のリーダー)を祀るひとたちが、
争わずに土地の利用や交易・往来の規制の協議しあった
のが、八所宮ではないか?
⑤ヤマト朝廷が台頭したことで南方系の神さまを祀る
風習は表に表すことが出来なくなり、本来は
『地元の神さまを信仰する人たちが、
馬に乗った渡来系の人たちを迎えた場所』であった
八所宮が、
『馬に乗った神さまたちが、天孫である神武天皇を
ご案内した場所』に変化したのではないか?
…とゆー、素人推理なんですがね…(笑)!!!
馬に乗った人たちが渡来するのが、早いか遅いかの違いかも~とか。
定説よりずっと早く、馬に乗った人々が古宗像湾・遠賀湾をさかのぼっていた
としたら、馬の大規模牧場を運営する技術の輸入前に、
半農・半漁の、南方系弥生人(もちろん縄文人ミックス)と協議し、
山間部の方に入植することにした渡来系の騎馬民族の人たちは、
先住の海側の人々の農作物や魚介と、自分たちの製鉄技術や、山で獲れる動物を
交換していたのかもです。
物部氏(もののべし)、なのかな~と。
もしかしてその後、アマテラスの孫がやってきて、
大国主さまに葦原の中つ国を譲らせる、
一般に言われる『国譲り神話』があったのでは…と。
…あれ、アシ=葦=ヨシ…葦原の中つ国…???
アシが茂っていて船を留め…葦はヨシで……き、気のせいか…
あまりにも長くなってしまったので、一緒に書こうと思っていた、
八所宮周辺にも見つけた!!
大国主さま、事代主さま、松尾さま
がいた痕跡!!
が、書けなくなってしまいました~~(TωT)
では次回こそシリーズ最終話にしたいと思います!!
まさかの⑤話めに突入!!(笑)
良かったら、また読んでくださいまし~~♡♡♡